ここは古くから旅人が往来し、文明12年(1480年)連歌師宗祇の「筑紫道記」(筑紫紀行)に「こやの関という所にして草の枕を結ぶ」と記されています。主要道長崎街道の宿場だけに、幕府の高級役人、諸大名、学者、文人、志士、それにシーボルトなども通っています。 宿場の機構も整っており、また宿場の町並みに特徴があります。通りは必ず一本、裏通りはなく、本陣の近くで直角に曲がり、横丁は袋小路でした。家は道路に並行せず、のこぎり刃状に建てられ、家並みは八の字型になっていました。これは宿場の整備をしやすくしたもので、今でもその様子が見られます。
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